HP作成にあたってご協力いただいた方々に心から感謝いたします。
ヨガを通して皆様とお逢いしていくなかで感じていることは
たまには背中で背負っているものを下ろすことが大切ということです。
出逢う方々は
日常生活においていろーんな形で頑張っていて、その姿は力強く美しいです。
本当に。
そこで背負っているもの。
それは目に見える
肩こり
から・・・
会社や家でのポディション
女である、男であるということ。
年齢や国籍。などという社会的なもの
さらには
自分のmindによって無意識に背負っているもの。
私とはこうあるべき。
みんなは私のことをこう思っているからその期待通りに存在する。
こうしなくては周りと足並みがそろわないから。
こうしていた方が私っぽいから。
など。
もちろんこうしたエネルギーは社会・世間を生きるなかでとても大切なものです。
世属から離れて山にこもるヨギーではありませんから、
自分を証明するためのエネルギーは財産であり、自分の肉体の価値を示す道具です。
でも私たちの本質は
それらすべてを剥がした先にある。
とヨガ哲学は残しています。
つまり道具を使う側であって、使われる側ではないということ。
自分使うハズの道具に使われて鎧のように重くなって身動きがとれなくなってしまうことをストレスと呼ぶのではないでしょうか。
時々、周りから、無理しすぎなんじゃない。ストレスたまらないのかな。と見えていても、
当の本人は自分の本質の信念のもと、
社会的ポディションを道具として使い
自己を自由に表現している方は、
周りからどう見られていたとしても
本人はそれらの鎧という名の道具を楽しく使いこなして自由に表現しているだけだから、
ストレスとは無縁でけろっとしていたりされるのですね。
私は
ヨガを体へのアプローチの体操だけとして観ていません。
本質である私たちのホームからその体や心・mindをどう見るか。
つまり観られる側にいた社会生活から、観る側還ってくる。
そしてその観る側から思考を使って、体を使って、自由にあなたの本質を表現してほしい。
そのためには
うまくできなくても良くて、ちゃんとしていなくても良くて、簡単に心地よく在ることを許してしまって欲しいです。
"ちゃんと病" からのひとときの解放。
ちゃんとするというた正しさだけを集めると、心も体も人との関わり合いも堅くなります。
背負っている荷物を一時的に下ろして、ほっとして
体が何を言いたがっているのか。
あなたの五感と思考が何を自動的に作り出しているのか。
眺めてみるのもたまには良いです。
自己発見になります。
自分を発見せずに、どうやって他人を理解できるか。
そんな言葉を残した古代のヨギーの存在に僭越ながら心同じくし、私個人としてヨガの叡智に愛を感じています。
ホームに還ってくるヨガを伝えたいです。
みなさんの大切な真ん中に。
写真はウブドのレストランの前にぶら下がっていた可愛いお猿。
何も背負っていないこの自由さ。
最後まで見ていただいてありがとうございました。
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